私は正直言って、なんでもかんでも「キメる」などという昨今の風潮は嫌いなのです。しかしあえて言おう、「詭弁・走れメロス」をキメてきた!と!
「ヤクをキメる」などと言いますが、まず私はネットスラングとしての「キメる」とは、その「ヤクをキメ」たときのような多幸感などに包まれるような何かを摂ることであると理解しております。今回観てきた「青春音楽活劇『詭弁・走れメロス』」とは、太宰治の「走れメロス」を元ネタに森見登美彦が書いた「新釈 走れメロス」を原作とした舞台でして、これがまさに「キメてきた」と言いたくなるようなそれは楽しいものだったのです。
「キメる」と言われるようなものは多くの場合「いいぞ病」と密接にリンクしており、「いいぞ病」とはそれを人に勧めるにあたって「いいぞ」としか言えなくなってしまう症状のことであります。「上手く言えないけど上手く言えないくらいこれはいいものなんだよ」という気持ちを表す言葉こそ「いいぞ」(たぶん)。
でもって、「詭弁・走れメロス」はいいぞ。
主人公の芽野史郎(武田航平)は「走れメロス」のメロスにあたるキャラクターであり、その友・芹名雄一(中村優一)はセリヌンティウスに相当します。ふたりの所属する部活・「詭弁論部」が部室を奪われ廃部の危機に晒され、その不当性を訴える芽野に「まあそこまで言うなら明日の日没、学園祭のフィナーレをブリーフ一丁で『美しく青きドナウ』を踊りきり飾ることができたら部室は返してやろうじゃないか」と部室を奪った図書館警察の長官(市川しんぺー)に言われ、「やってやろうじゃないか、ただし姉の結婚式があるので(大嘘)出席したい、人質として親友の芹名を置いていく」として実際は満喫にこもったり、嘘に気付いてなんとか桃色ブリーフで踊らせんとする長官の追っ手から逃走したりするというストーリーです。
このお芝居の特筆すべき点は、「原作の地の文まで台詞になっている」こと。「○○は××した」のような地の文を役者が台詞として話すのです。これは本当に説明するより見てほしい!という部分で、早口なんだけど早口すぎない語り口、語り手が変わっても一切途切れることのない滑らかさ、テンションの高さ大げささなんかが相まって、それはもうすごいスピード感を生み出していました。シーンにもよりますが、一定のリズムというかテンポがあって、最初から最後までその勢いなんですね。突然担ぎあげられてドワーッと運ばれてそのままゴール!みたいな感じで(意味不明)、これが「すごい」「楽しい」「いいぞ」としか言えなくなる原因の大部分を占めています。とにかく勢いがものすごい。
そしてそれだけじゃないのが小道具などの取り回し。「どっからか出てきてどっかに消える」んです。マジで。
そこを見ようとするとセットの後ろの方から取り出したり、袖に投げたりしているのがわかるんですが、逆に言えばそうしないと流れの中でいつの間にか出てきていつの間にか消えるようにしか思われないのです。一定の、そして速いスピードの流れがあって、それが止まったり澱んだりしないんですね。「音楽的」とでも言えばいいのか。かつ、常にどこかに注目させられてしまうので、小道具がどこから出てきてどこに行くのかなんて気にしている暇がないのです。どれだけ計算や段取りがあってそれをどれだけ稽古してきたんだろう?と思ってしまうくらいでした。
途中歌やダンスのシーンも入るのですが、逃走シーンなんかはこういう感じの現代アート的なダンスかマイムのパフォーマンスありそうだなあ(無知)なんて考えるような優雅(笑わせに来てる)なものだったりして、やたら主演・芽野史郎役の武田航平くんがリフトされまくっているのが印象的でした。台詞のあるシーンとは違ってスローモーション的な表現であることが多かったからでしょうか。思ったらそういう風に緩急がついていたんですね。そう言えばものすごい勢いだったと感じさせながらも飽きない・疲れないのはそういうからくりだったのかもしかして!
ネタバレなしで語れるのはこれくらいなのですが、本当にこれまでになく舞台演劇含むパフォーマンスとは関わる全ての人の作品なのだと感じさせられるようなものが「詭弁・走れメロス」でした。初演もできれば観てみたいので(今回は一部キャストを変更しての再演)、どうかこれを機にDVD再販してくれますように!
以下、ネタバレあり萌えありでの感想など。
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